あの日流れた涙の理由。
それは、伝えそびれていた
「ありがとう」でした。
銀行を辞めるときに言えなかった
感謝の想いを、4年越しに
伝えに行った実話とこれからの
在り方について綴りました。
あの日、言えなかった「ありがとう」を伝えに
八ヶ岳の瞑想で、涙が頬を伝った日

2024年9月、八ヶ岳に2泊3日で
「そうじ力」の舛田光洋先生の
そうじ合宿(単に部屋をきれいに
するだけではなく、心や思考の
“汚れ”にも気づき、整えていく
そんな深い学びと内省の時間が詰まった、
リトリート)に参加した時のこと。
普段、山は「見上げるもの」ですが、
この場所は、山の“てっぺん”が、
自分と同じ高さに見える。
空と近い、不思議な感覚に陥る場所。
3日間、毎日「瞑想の時間」がありました。
私は、瞑想したことはあるけれど、
いつも雑念でいっぱいで、
涙が出るとか、感情が溢れる
ということは一度もありませんでした。
1日目は、どなたかが鼻をすする音が
聞こえるくらい涙を流している方がいて、
すごいなぁと思っていたのですが、
なんと翌日、驚きの体験をするのです。

2日目の朝、ゆっくり目を閉じて、
舛田先生の誘導に沿って、
静かに呼吸を整えていると
ふわっと身体が軽くなって、
私はそのまま、
天高く飛び立っていきました。
気がつくと、私は小鳥になっていて、
やわらかな風に乗り
ある小さな窓辺にたどり着いていたのです。

ちょん、ちょん、ちょん。
小さな足で窓辺を飛び跳ねていると、
中にいた白髪の男性が、
ふと顔を上げて、小鳥の私を見つめて
「おぅ!」と一言。
その声を聞いた瞬間、
胸の奥にしまい込んでいた想いが、
溢れるようによみがえってきました。
急に目頭が熱くなり、
悲しいわけでもないのに
涙がとめどなく
溢れ出てくるのがわかりました。
「どうして涙が止まらないんだろう?」
自分では全くコントロールできませんでした。
その状況に、自分でも驚きました。
会社を辞める時に、言えなかった感謝

私は、長く勤めた銀行を
コロナをきっかけに
新しい働き方をしたいと思い
2020年に退職しました。
それから数年経ち、
こう考えることが増えたんです。
「今、これができているのって、
なんでだろう?どうして私は
今こんなふうに動けるんだろう?」
その答えをたどっていくと、
やはり思い当たるのは、
銀行でたくさんのことを
経験させてもらったから。
それくらい、
あの場所で経験したことは、
今の自分にとって
大きな意味を持っています。

けれど、最後。
私はどうしても言えなかった。
一番お世話になった人に
「お世話になりました」と「辞めます」と
きちんと伝えることができないまま
会社を去ってしまったのです。
そう、小鳥になって会いに行った人は……
その方だったのです。
「感謝が言えなかったことが」
心の中で引っかかっていたのだ
と気づきました。
行内がざわつくハプニング

あの時、私は入行してまだ2年目。
いわゆる“ペーペー”でした。
実は、私がその銀行に入ったのには、
ちょっとした“戦略”があったんです。
「中国語を活かせる仕事がしたい」
「でも、大阪で働きたい」
そんなふうに考えていた私は、
関西圏で中国語が活かせそうな企業を、
調べていきました。
そして出会ったのが、その銀行。
「大阪勤務OK」で「中国に現地事務所がある」。
さらに、社内に中国語ができる人が
多くなさそうな印象もあり、
私は“ここだ”と狙いを定めて、
エントリーしたんです。
面接では、「中国語が話せます」
と強めに伝え、無事に入行。
配属されたのは、人事部。
給与計算をしていました。

当時はちょうど、中国とのビジネスが
盛り上がりを見せていた頃。
そんなある日、銀行で思わぬ
“ハプニング”が起こりました。
本店に中国政府関係者が来日されることになり、
通訳として中国事務所の秘書さんが
同行する予定だったのですが、
なんと…ビザが下りず、来日できない事態に。
急なアクシデントに、
行内は一気にざわつきました。
「頭取の通訳がいない…どうするの?」
「中国語ができる人、誰かいないの!?」
その時、人事部の中で探され始めたのが、
1年に1回提出する
「自己申告シート」でした。
特技欄に「中国語」と書いている人の
リストアップしはじめ、
人事部内は、ちょっとしたパニック状態。
私はその様子を、静かに見ていました。

後日、人事部長から声をかけられたんです。
「三村さん、やってみないか?」
正直、通訳の経験は一度もありませんでした。
でも、「チャンス来たー!」
と心の中でガッツポーズ。
「はい、やらせていただきます!」
と即答していました。
不安もありましたが、それ以上に
“チャンスを活かしたい”
という想いが大きかったんです。
そうして私は、その通訳の役目を
任せていただくことになりました。
結果的に、大きなトラブルもなく
無事に務めを果たすことができました。

それをきっかけに、
私は人事部にいながらも、
その方が中国へ出張される際には、
同行させていただく
機会をいただくようになったのです。
当時まだ若手だった私にとっては、
本当にありがたい経験ばかりでした。
銀行員でもなかなか
経験できないようなことを、
目の前でたくさん学ばせていただきました。
八ヶ岳から帰って、心が決まった

八ヶ岳から帰ってきた私は、
迷うことなく、すぐに行動に移しました。
お年も召されてきている。
だからこそ、今しかない。
このままお礼を伝えられなければ、
きっとずっと、心残りになる。
そう思ったんです。
そして、2024年の11月。
お世話になったあの方に、
会いに行きました。

久しぶりにお会いしたその方は、
お元気そうで、その姿を見て、
まずはほっと安心しました。
そして、このように伝えました。
まだ右も左もわからなかった、
2年目の私に、あんなにも
大きなチャンスを与えてくださったこと。
その経験があったからこそ、
私は“自分の可能性”を信じて、
今の道を選ぶことができました。
あの経験がどれだけ貴重で、
ありがたいものだったか
感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、嬉しかったのは、
たくさんの行員がいたにもかかわらず、
私のことをちゃんと
覚えていてくださったこと。
「そういえば、あの時
こんなことがあったよね」
そんなふうに、懐かしそうに
話してくださる姿に、
胸がいっぱいになりました。

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私は、InstagramやYouTube、
レシピを掲載していただいた
中華料理のレシピ本などをお見せしながら、
「今はこんなことをしています」と、
今の自分のことを伝えました。
その方が、私の歩みを
見守るように聞いてくださり
「いやぁ、大したもんですな」と。
なんだかとても嬉しくて、
心の奥からじんわりと
あたたかくなる感覚がありました。

そして、
「どうして辞めたの?」と、
聞かれたので、私は正直に答えました。
だんだんと考えが合わなくなってきて…
コロナをきっかけに、
自分の中で“これがやりたい”
という想いが強くなってきて、
その気持ちに素直に従いました。
するとその方は、にこっと笑って、
三村さんらしい選択やね。
そう言ってくださったのです。
そのひと言が、どれだけ嬉しかったか。
今の私の選択を、
“らしい”って認めていただけたことが、
本当に心に染みました。
それだけで、何かがひとつ、
自分の中で整った気がしたんです。

そして、その方から最後に言われたのが、
「若い時にいろんなことに
チャレンジしておくことやね」
という言葉でした。
年齢を重ねていくと、
体力的にもできることに限りが
出てくることもある。
だからこそ、今動けるうちに、
やりたいと思ったことは
どんどんやってごらんと。
それは、大先輩からのあたたかくも
力強いアドバイスでした。
あの時の感謝と、今の私を
しっかり伝えられて、
「会いに行ってよかった」と思いました。
私も、誰かの“きっかけ”になれたら

そう、私は銀行時代はもちろん、
それ以外の場面でも、
ありがたく、たくさんのチャンスを
いただいてきたんです。
そのひとつひとつが、
自分の経験を広げ、視野を広げ、
知識や可能性を
育ててくれたと思っています。
未来の扉を開ける鍵のようなもの
だと感じています。

そして、「起業する」と決めてからは、
ずっとコンサルの高橋貴子先生に
ついて学ばせていただき、
気づけばもう、4年半近くになります。
自分ひとりではきっと
踏み出せなかったようなことも、
先生に導いていただいたことで
挑戦できたことが、どれだけあったか…。
自分ひとりでは
到底できなかったような経験も、
こうして支えていただきながら、
実現できていること、
感謝の気持ちでいっぱいです。

だから私も、
自分にできることで、
誰かの力になれたら
そう、心から願っています。
決して“上から”という気持ちではなくて。
私自身もこれまで、
本当に多くの方々から信じて、託して、
導いていただいてきたからこそ
今度は、そっとチャンスを渡せる人でありたい。
その在り方を、これからの人生で、
丁寧に育てていきたいと思います。
ーみなさんにも、感謝を言い忘れた人はいませんか?