小学生の頃の仲間外れ。
社会に出ても「合わせることが正解」
だと思ってきた私。
でも今は、自分にとって心地よい
人間関係を選べています。
人との関わり方は、自分で決めていい。
誰にでもその選択権があります。
今回は、そんな気づきにつながる
お話をお届けします。
誰と、どこで、どう生きるか。今こそ、自分で選ぼう
順番で回ってくる不条理

先日ある方のオープンチャットの話題が、
「仲間はずれ」についてだったんですね。
すごく共感して、
「ああ、私も小中学校のとき、
こういうのあったな」と思い出したんです。
あの頃って、
「いじめ」や「仲間外れ」が、
なぜか順番に回ってくるんですよね。
誰かがターゲットになると、
次はまた別の誰か——。
誰が教えたわけでもないのに、
自然とそういう空気ができてしまう。
人が集まると、なぜかそういう
“見えない秩序”が
生まれるのが不思議でした。

私自身も、ある日突然
“呼ばれなくなる”経験をしました。
昼休みになると、主犯格の子が
「○○ちゃん行こう~」と、
友達の名前を一人ひとり呼びに来る。
でも、私の名前だけ呼ばれない。
教室にポツンと残って、
「どうしようかな…」って迷っていると、
先生から「どうしたの?」と声をかけられて。
「今から行くところです」
って笑ってごまかしたけど、
心の中はズキズキしていました。
なにか特別悪いことを
したわけでもないのに、突然外される。
そんな理不尽さに、
子どもながらに戸惑っていたのを
覚えています。

「自分が何かしたのかな?」
って悩んでしまうし、誰にも相談できない。
しかも、それが一時的なものかもしれない
と思うと、余計に動けないんですよね。
今なら「そんなの気にしなくていいよ」
と言えるけど、当時の私にとっては
「その世界がすべて」でした。
その世界でうまくやっていかないと
生きづらい、そんな空気がありました。
だからこそ、心の中のその時の“痛み”は、
いまだに忘れることはありません。
女子の世界——主犯格と呼ばれる子の存在

小学校の頃の
あの“仲間外れの空気”って、
ほんと独特だったと思います。
何かのきっかけがあるわけでもなく、
主犯格の子が何となく
流れを作っていくんですよね。
たとえば、さっきも書いた
「○○ちゃん行こう~」って
順番に名前を呼んでいく場面。
そのとき、呼ばれない人がいる。
その空気、他の子たちも
察してるのに誰も何も言わない。

「いま、○○ちゃんが
“そっち”にされてるんだな」
って、みんなが無言で理解してしまう。
これが恐ろしいなと思うんです。
だから、仲間外れにされた側は、
余計に「何が起きてるのか分からないけど、
何かがおかしい」と感じるんです。
ただの思い過ごしかもしれない、
と思いたいけれど、やっぱり現実は違う。
声をかけられない。
目も合わせてもらえない。
遊びに誘われない。
それが毎日のように続くと、
どんどん自分の存在が
ちっぽけに感じてしまうんですよね。

今思えば、あの主犯格の子も、
もしかすると家庭の中で
満たされてなかったのかもしれない。
先生や親の関心を
引きたかったのかもしれないし、
誰かに自分の存在を
認めてほしかったのかもしれません。
でも、その発散の仕方が
“誰かを外す”という方法だったことが、
本当に悲しいことだなと思います。
ランドセル事件

今でも忘れられない、
ある出来事があります。
たしか学年の集会か何かで、
いつもの教室とは違う部屋に
荷物を置くよう言われたときのことでした。
私はその部屋の、
誰の席かもわからない机に、
何気なくランドセルを置いて
席を外したんです。

しばらくして戻ってくると、
私のランドセルが床に転がっていて…。
「えっ…?」と思っていたら、
近くにいた男の子が言いました。
「なんでお前、俺の席に
ランドセル置いてんだよ!」
と、明らかに怒りながら。
その時点で私は言葉が出なくて。
ただ、床に落ちたランドセルを拾ったら、
ランドセルの横につけていた
キーホルダーが、
バラバラに壊れていました。
兄が修学旅行で買ってきてくれて、
大事にしていたものだったのに…。

たぶんその子にとっては、
ただの怒りの発散だったのかもしれません。
でも、私にとっては
たった一言とひとつの行動で
心がぐしゃっと潰れるような出来事でした。
謝られることもなく、
モヤモヤしたまま日常に
戻らざるを得なかった自分が、
とても悔しかったんです。

たかがキーホルダー。
でも、子どもにとっての“持ち物”って、
自分の大事な世界の一部なんですよね。
それを壊されたという事実と、
「なんでそんなことで?」
という理不尽さが、
今でも心に残っています。
きっとやった方は、
そんなこと覚えても
いないと思いますが。
だからこそ、
今は誰かの“小さな悲しみ”に
気づける大人でいたいなと思うし、
誰かが悲しむことをしたくない
と思うのです。
今は“お一人様”が心地よい。

あの頃は、
「みんなと仲良くしなきゃいけない」
って思ってました。
たとえちょっと違和感を覚える相手でも、
輪から外れるのが怖くて、
なんとなく付き合っていたんですよね。
でも今は、まったく真逆。
「心地よくない人とは
無理に付き合わなくていい」と、
自分に許可を出せるようになりました。

会社員時代もそうでした。
社内調整を円滑にするために、
ちょっと苦手だな…と思う人とも、
ある程度はうまくやらなきゃ
と頑張っていた時期があります。
正直、しんどかった。
会いたくもない人と
顔を合わせる前の日なんて、
もう気が重くて重くて…。
でも今は、“会いたい人”としか
会っていません。
だから予定が入っていても、
「楽しみだな~」と
数日前からワクワクできるんです。
これって本当に、
心の健康にとって大きな違いだと思います。

私は独身ですが、
よく「寂しくないの?」と聞かれますが、
皆さんの期待に応えられなくてごめんなさい。
一人でいる時間、全然寂しくありません。
むしろ、自分を整えたり、
インスピレーションを受け取るには
一人の時間が不可欠なんです。
おしゃべりしたいときは
誰かとご飯に行く。
でも、そうじゃないときは
静かに自分の世界にこもる。
このバランスがあるからこそ、
私は私でいられるのだと思います。

昔のように、“無理して付き合う”ことを
美徳としなくなった今。
人間関係も本格的に「選べる時代」
になってきたんですよね。
そう思えるようになったのは、
きっとあの頃の経験があったからこそ。
だからこそ、「なんだかしんどいな」
「この関係、無理してるな」と感じたら、
そっと離れる。静かに距離を置く。
それは逃げでも負けでもなく、
ひとつの立派な“選択”だと思うのです。
自分に合う場所で生きていい。

ここまで昔の話を振り返ってみて、
ひとつ強く感じたことがあります。
それは、
「合わない場所にずっと
居続ける必要なんて、ない」ということ。
ライブ中にも話題になりましたが、
リスナーさんがコメントしてくれた
印象的な言葉があります。

東大の経済学教授、安冨歩先生の言葉。
学校は兵隊を作る機関、
牧場でそれぞれの仕事を
しながら過ごす方が、
生きるにはよっぽど有意義。
この言葉、ものすごく腑に落ちました。
たしかに、私たちは長い間、
“右にならえ”の教育の中で育ってきました。
先生の言うことは絶対。
みんなと同じようにする。
そこから外れると、
“変わってる”と言われてしまう。
でも、それって本当に
“正しい”のでしょうか?
あの枠に合わなかったからといって、
自分が間違っているわけじゃない。
むしろ、自分に合う環境が
ほかにあるのに、
ずっと軍隊の中で頑張っていた
のかもしれないんですよね。

牧場のような場所
自分のペースで、自分の役割を持って、
広い空の下で働くような生き方。
そういう働き方・生き方が、
これからはもっと自然で豊かな
スタンダードになると思うのです。
いまは選べる時代。
どこに、誰と、何を信じるか。
それを決められるのは、
他の誰でもない「自分」。
もし今、何かのグループや
場所に違和感を感じているなら、
その場を離れてもいいし、
もっと自分に合う世界を
探しに行ってもいい。
誰かの期待や常識に、
自分を閉じ込めなくていい。
私は今、自分にとって心地いい人たちと、
小さくて温かな世界を作っています。
毎日が軍隊じゃなくて、
牧場みたいな空気で回っている。
だからこそ、自分らしく働けて、
心も穏やかでいられるんです。
あなたにも、そんな場所がきっとあるはず。
今すぐ見つからなくても、
気づいた時から変えていけます。
私は毎日おひる12時に
LINEオープンチャットで、
こんな日々の気づきについて発信しています。

こうして今、集まってくれる人たちと
過ごす時間が、私はとても心地いい。
価値観や考え方を共有できて、
「そうだよね」って
うなずき合える関係こそが、
これからの人生にとっての
“財産”だと思っています。
世界は広い。
だからこそ、自分が心から
心地よいと思える小さな世界を、
大事に育てていきたい。
そんなことを、今あらためて感じています。